作品概要
「成れの果て」/2024年/ スタイロフォーム
地域の困りごとやアクシデントを聞いたり見つけたりして、改善に向けた応急処置を施すという取り組みである。
処置の方法は、大きなスタイロフォームの塊をペットのように連れ回し、対応の必要な物事を発見すれば、スタイロを切り刻んで簡易的な道具を作り、対応するといったもの。
様々な角度の困りごとにスタイロを切り分けて対応することで、スタイロは形状変化していき「役に立った形」を現していく。
活動及び作品紹介(活動の時系列に沿って)
本作品は、阪神尼崎駅前の中央公園内にて、2023年12月~2024年1月に、約1ヶ月間活動してできた形です。
(1)
活動初日の物体。100mm厚のスタイロを貼り合わせ大きな四角い彫刻の素材にしたもの
初日なのでまだ何の刻みもなくただの四角。
(2)
散歩の様子。こうやって練り歩いたり、一箇所に留まって市民と会話したり。
(3)
通りがかった市民の方から、段差を指摘され、注意喚起した様子。
小さな段差のままでは、目視できない場合があって、足の上がらない老人などはつんのめってしまう事が時々あるそう。
そこで、刻んだスタイロを起き、視認性を上げて、手前から段差を避けるきっかけを作った。
(4)
簡易灰皿/噴水の水を入れている。
喫煙所外で喫煙する人が多く、ポイ捨ても多いことから、簡易的に灰皿を作りした。他にも、椅子などに鳥のフンが付着していたら、掃除できるサイズに小さくカットしてフンの清掃等を実施。
(5)
中央公園で週に3-4日程度活動し、1ヶ月後には、このくらいボコボコになりました。
(6)
そして、汚れた表面を削り落とし、文言を変えて中央公園1階へ展示。
作品と同じレベルからだけでなく、上から見下ろすことで、別の見え方がする作品に。
作者コメント
社会課題と向き合うというテーマで始まった半径(R)プロジェクトにおいて、アートと社会の結びつきや、アートが社会にどのように作用するのか?という点に重点を置き、アイデアを捻出しました。
本作品は「役に立った形」を表現の主体とするもので、その形を得るために、無機質な四角い物体を用意し、指定地域で困りごとなどが発生した場合、物体の一部を切り刻んで対応の道具に変えるといった手法で制作されています。
作家個人の美的感覚に適った切り込みや、思惑をもったものは可能な限り排除して活動にあたったので、刻みのサイズや形状は活動を実施した地域の状況を反映し、形そのものが、そこにある問題の質や量を表現しています。
展示物をグルっと見回し、刻まれた様々な形がいったいどのような困りごとに対応したのか?を想像しながら鑑賞して頂けると、おもしろいかも知れません。
活動を終えた最終的な形は、管理のしっかりされている公園らしく、日常の小さな困りごとや迷惑行為に対応する内容ほとんどだった為、大きな歪みは発生せず、小さな四角がいくつも切り取られるようなものが形状の主流となりました。
また、市民の方に公園内で何か困ったことはないか?と尋ねた際に、いくつか答えを頂き、アクシデントに備えて注意喚起を行うような対応を行なったりもしました。
もし機会があれば、あまり管理されていない場所での実践も行なって、違いを検証してみるのもおもしろいなと思いました。
些細な改善を繰り返していた中でも、強く心に留めるような出来事もいくつかありました。印象に残った2つの出来事を紹介します。
まずは、1人の少年と交流した出来事。
彼は、小学校低学年くらいの子で、ハキハキと喋る明るい子でした。
しばらくスタイロの物体を眺め回した後、彼は椅子に見立てた切り込みに腰掛け、足にいくつかあるアザを見せてくれました。そして、「これ全部友達にやられた」と何気なしに語ってくれました。
そんなに深刻な語り口でも無かったので、遊びの延長で怪我をしたのかな?という理解で、彼の話を淡々と聞いていました。ただ、「これ見て」と傷を見ることを促し、「友達にやられた」と、見ず知らずのおじさんに言う真理とはどのようなものなのか?をひとしきり考えてはいました。
<かわいそうな自分を伝える>みたいな行為には、何か必要以上に自分に注目して欲しいという隠喩が込められているのではないかと余計な考えは膨らみ、その理由は、何かしらの寂しさを抱えているのではないかと案じる所まで行きつきました。
彼とは、その後、スタイロをソフトボール大の大きさに切り出して、キャッチボールをして遊びました。終わりが見えないほど遊びたがるので、体力がつきかけた僕の方から、「そろそろ終わろうと」告げると、彼は素直に従ってくれました。
ひとしきり遊んだスタイロを大事そうに抱えて「もらっていいか?」と訊かれ、別に構わないので了承すると、大事そうに抱えたまま公園を去って行きました。
彼のスタイロを抱えて帰っていく姿を見た時、1ヶ月間で最も役に立った出来事だと感じました。
もう一つは、”ルールを気にしない闊達な大人(仮名)タムロさん”です。
そういう大人が割と毎日出現し、ルールを気にしないもので、一般的な大人も問題ないだろうという判断をし、結果、タムロさんと同じ行為をしてしまうといった現象が数多く見られました。
活動において、小さな困りごとを処理したと書きましたが、困りごとは小さくとも数多く発生しました。特にポイ捨ては後を絶たない印象です。
アクシデント的に彼らと接触した出来事を通じて、彼らが許容範囲内のルール違反で収まっている内は、触らぬ神として扱うといった暗黙の了解が存在するのかも?と思いました。
それは別に悪い事ではなく、様々なリスクを考慮した上で、最善の方法だと理解したので、その後の対応として、触らぬ神の姿勢は維持しました。
ただ、タムロさんやそういう大人が居心地良く滞在できる環境の在り方や、そうなってしまう公共性の解釈について、個人的に考える場面が増えた出来事でした。
このような経緯を踏まえて、僕の感想なり意見なりを綴っていこうと思います。
おそらくどの地方でも存在するとは思いますが、公共という万人に開かれた場所においても
辞書に載っているような単純な公共性では対応できない部分があるなと思いました。
ローカルルールと簡単に言ってしまえばそうなのですが、安全や安心感を演出するために飲み込まざるを得ない地域特有の秩序が存在し、外部者が多少深入りする姿勢を見せるなら、その秩序を把握していなければ対応に困窮するなと思いました。
尼崎が今後深入りしない人々だけを受け入れる街であるなら、そのままでも充分だとは思いますが、移住者やインバウンドを居住者として本格的に受け入れ一歩踏み出そうとするなら、なんとなくですが、最も人通りのある駅周辺くらいは、辞書に近い公共性に近づく必要があるなと感じました。
僕自身も、尼崎で活動してはいますが、外部から来た人間ですので、デザインされた尼崎にしか触れられていなかったようで、多数の人間が共有している公共性の解釈のまま良し悪しの判断をしていました。
多くの人がそうだと思いますので、「場所に応じた公共性の解釈/使い分け」みたいなものを見出す必要があるなと思いました。
かなり主観的な解釈になりますが、ルールを気にしない闊達な大人と、ボール遊びをした子供の心には、共通点があるように思いました。
僕が子供と遊んでいる際に、「帰らなくて大丈夫か?」という質問を彼に何度か投げ掛けましたが、公園で見ず知らずの準不審者と時間を潰すことが優先されている事情には、自分がいるべき場所に楽しさが無いか、自分がいるべき場所にある種の苦痛を感じているのではないかと思いました。
また、タムロさんも同じくそうなのかもしれず、中でもお金のかからない公共空間、それも彼らが座りいいと感じてしまった駅前に佇むという現象が生まれているのだと思いました。
先に述べた「場所に応じた公共性の解釈と使い分け」を、これらの現象を鑑みてホワイトな駅前を実現するなら、子供がわんさか集まって遊べる空間(空気)にし、あまりにも純粋な空間な故に大人の居心地を悪くするといった方法はありなのかと思いました。一般的な大人の意見も無視して、徹底的に子供優位な空間を作り上げるといったやり方をすれば、子供の遊び場は守られ、タムロさんも駅前から離れ、彼らも新しい場所で新しい出会いを見つけられるかも知れません。
場所に応じてないと感じるかも知れませんが、ホワイトなイメージは全方位に対応できる令和の無敵概念です。
最後にこの活動をひっきりなしにSNSに投稿した上で得られた一つの結果をご報告します。
活動期間中、毎回インスタグラムに投稿していた簡単な報告と、活動後にtiktokに投稿した活動の内容を簡単に説明した動画を合計して、20万件程のリーチを達成いたしました。
何をやっているのかわかり難い動画に、たくさんの方に触れていただいてありがたく思います。
おかげで、疎遠になっていた知り合いから「tiktokのおすすめで見た!」と連絡もらいました。
成れの果てという作品が抱えている文脈に少しでも興味を持って頂き、現代アートというジャンルで社会にどのように貢献しようとしたのか?を垣間見て頂けたら幸いです。
最後に、展示期に移行したタイミングで、スタイロに掲げてある文言について触れます。
「ハトにもエサを与えないでください!」これは、中央公園での活動の感想を一言で表したものです。この言葉の「も」は、ルールを気にしない大人への”配慮”を表しています。
前田真治 2024.2.3